こんにちは。
みなさん、われらがニコちゃんの記事みましたか??
ほんとすごい。英語とか全然できないけど、ほんとに載ってる!!感動!!ってなりました。
前回のブログにリンクが載ってるので、みていない人はぜひ!
ところで、今日のブログ担当はじんです。
今のところ、長いブログを書くことだけが取り柄だと思っているので、どうぞ今回もお付き合いください。
春ですねー
花粉症ではないわたしは、なんの患いもなく春に突入しているわけですが。
そんなわたしの近況として、はじめて時計の電池交換をやらせてもらいました。
え、できなかったの…?と思われてもしかたありません。
ふだんは技術的なことは他3名のスタッフにお任せし、自称広報担当としてパソコンと向き合ったり、写真を撮ったりしていることが多いです。
電池交換なら簡単だよ、といわれ、ベルト担当にこちんの指導のもと、時計の蓋を開けてみたはいいものの、
一個一個の作業にもとめられる正確さに驚きつつ、びくびくしながら電池を交換し、蓋を閉め、いわれるがまま確認作業などを経て時間を合わせたときにはもう、一つの時計に命を与えた感じがして達成感に溢れていました。(実際は言われた通りに作業しただけ)
はじめて時計の中身に触れた感想は、終始「すげー!」で終わりました。(語彙力…hahaha…)
いままで自分の時計に対して落としたり水に濡れたり、だいぶぞんざいな扱いもしてきたけど、繊細な中身と作業に求められる正確さに驚きました。なんとなく頑丈なイメージだったけど、実際に繊細な機械をみると、むしろよく壊れずに動き続けてたな、と。大切にしよう。
確かに、一連の作業は、教えられれば初心者にもできる程度の簡単な作業でした。
でも、なにがすごいかというと、
これを仕事として、何十、何百、何千もの作業を同じような正確さでこなすことが、もう驚異的というか、簡単だからこそ些細な部分で油断できない難しさを感じました。
もはや、電池を外して、また入れる、だけじゃないのだ。
ほんとうに電池がないだけなのかどうなのか、時計の中のちいさなちいさな世界と対話するような、そんな繊細な作業でした。
わたしには無理やー、ははは。
だけど、また今日も時計が新たに動き出すたびに、それをみて電車に乗り、あるひとは大事な発表を控えているのかもしれない。あるひとは12時ぴったりに大切なひとへの誕生日メッセージを送るのかもしれない。あるひとは針があと半周したあとのことを待ち遠しく思っているのかもしれない。
時計に限定したことじゃないけど、世界は支えてるのはかぎりなく地味なものなのかもしれない。と思いました。すてき。
以上、わたしの電池交換体験談でした。
ところで、先日上野公園へ桜を見に行きました。
見に行ったというか、帰りついでに寄ったら思いの外いいタイミングで、溢れんばかりの桜の生命力に圧倒されてきました。
母です。
花ってすごいよなあ。
きっと、わたしがどれだけ素敵な絵を描けたとしても、どれだけ素敵な歌を歌えたとしても、こんなにも多くの人を感動させることなんてできないよなあ、と。
だからこそひとの人生には花が欠かせないし、これから何度見ても、同じ回数だけ感動させられるんだろうな、と思った春です。
じつは、昔は花に対して感動とかぜんぜんしなかったのに、さいきんになって大好きになりました。
学校に通ってたころは、春になると桜の木の下で写真を撮るのがお決まりだったけど、学校も街も花のイラストであふれていて、わたしはどこか花に対して苦手意識があって、たぶん厚化粧の女性みたいなべたべたした感じというか、ちょっと近寄りがたい印象があったのかもしれない。
さらに美大予備校に通っていたのですが、そのときわたしは日本画学科だったので、毎日毎日花瓶に入れられた花を描いていて、花を見るたび飽き飽きしてました。
花瓶で咲き誇ってる花たちの絵の描いて、色が濁ってるだとか、形が違う、比率が違う、奥行きがない、などの指摘をうけ、いつまでたっても実物に近づけない色をもとめて、なんかもう、そのときわたしは花を描くのが苦手だったし、自分の絵のことしか考えてませんでした。
今思えば、2日で一枚描いて、その次の日には違う花に変わってて、用済みになった花は毎回捨てられてたのかと思うと、自然を重んじるはずの日本画なのにけっこう残酷なことしてたな、と。まあ、受験ってそういうものなのかもしれないけど。
ようやく今になって、花って素敵なんだと気付きました。
小学校の頃、愛用してたお下がりの黒とグレーのマフラーを同級生に”おじマフラー”とばかにされてたわたしも、いまではお花柄大好きです。
「年をとったせいかな?」と友達に話したら「え、わたし昔から好きだったよ」と即答されて、なぞの敗北感を得ました。
23歳、春。
描けなかった花たちも、いまはうまく描けそうな気がしてます。
気がするだけです。笑